花畑分団沿革

一、常に思いやりの心で接しよう

一、お互いに助け合いの心をもとう

一、家族、仕事を大切に、そして地域に充実した貢献を

【前説】
屋形原・若久・野間・高宮・平尾  大正15年(昭和元年)福岡市に合併

 

樋井川村
柏原・桧原・上長尾・下長尾・鳥飼  昭和4年福岡市に合併

 

以前より各村に施設として消防組があった。屋形原・柏原・桧原等に独自の消防機材車庫が確認されている。昭和14年消防組と防護団が当時の時勢を繁栄し警防団として発足した。花畑分団の前身にあたる福岡市警防団第6分団(桧原等180名)・第21分団(花畑)西警防団の第5分団(花畑一部)60名等が誌面に確認される。

昭和14年『警防団令発令』に伴い上記の地域を整理統合して現在の花畑分団骨格が出来上がり桧原・樋井川・鳥飼・友泉・皿山・柏原・鶴田・屋形原・若久が変革回数を繰り返し現在の5校区骨格。『花畑・西花畑・東花畑・柏原・鶴田』に繋がる。

《総括》
昭和初期「消防組」の当時より村落単位防災は火災・水害等に対処していたが、粗末なものであった。昭和14年、防空警戒の必要性から以前あった消防組・警護団などを総合して警防団を全国的に採用した時点で、福岡市も昭和初期に合併していた旧八幡村・旧樋井川村を整理独立して花畑として昭和14年の「警防団令」により福岡市警防団第21分団『花畑』とした。分割・統合を経て現在の鳥飼より友泉を含め、現在の「市民の森」として利用されている油山一体まで広範囲を管轄。戦前戦後を通し近代消防への切り替えが進んできた。装備の近代化に伴い、蓑田長太郎氏より土地を寄贈され、木造の車庫を現在の位置に建設。(現在の分団車庫:柏原車輌車庫)

花畑分団は、昭和22年「消防分団令」により以前にあった警防団から人員・機材・車輌・車庫などを引継ぎ柏原分団車庫・車輌等を主力に山田車輌庫・桧原車輌庫・鶴田車輌庫を残して整備拡充の努力を地域・福岡市消防署等の力添えで現在に至る。

 

・消防団員は、市町村の特別地方公務員。任命は、団長、市長が行う。

・法律は、消防法「消防組織法」

・団員は、地域社会に住居を有し、ボランティアで自分が住む地域に奉仕する。

・団員は、常に「地に居て乱を忘れず」の心で常日頃の機材の点検・検査訓練等心を研き

 有事の際は慌てず行動する。「平常心」の鍛錬に気を配る事。